概要/あらすじ
中国ドラマ「与君歌~君と歌を~」の原作小説である『剣器行』は、唐王朝時代、文宗の治世を舞台にした宮廷ロマンスを描いています。宦官の仇士良が権力をほしいままにする中、文宗は李訓や鄭注らと共に仇士良誅殺を企てる「甘露の変」を計画しますが、失敗に終わります。
このクーデターの巻き添えとなり、大臣・王涯の一族は皆殺しにされますが、王涯の孫娘である二人の姉妹は生き延びます。妹は魚尚宮に拾われ、魚氷児と名を変えられ、姉は仇士良の義娘となり、煙織と名乗ることになります。
文宗の崩御後、穎王・李瀍(後の武宗)が即位し、安王・李溶と共に仇士良に対抗します。偶然にも仇士良を救った魚氷児は、李溶の憎しみの対象となります。李溶はあの手この手で氷児を苦しめますが、日々共に過ごすうちに、当初の目的を忘れ、彼女に惹かれていきます。
一方、仇士良は煙織を宮廷に送り込み、才人となります。同じ宮廷に身を置きながらも、互いの素性を知らない姉妹は、やがて敵対することになります。煙織は著実に権力への階段を上り、李瀍の寵妃となりますが、彼女の胸中には一族を滅ぼした李瀍への復讐心が燃え続けています。
権力闘争、姉妹の確執、そして禁断の恋。『剣器行』は、複雑に絡み合う人間模様と波乱万丈の展開で、読者を物語の世界へと引き込みます。手に汗握るサスペンスと切ないロマンスが絶妙に融合した、魅力的な作品です。
編集者注記
唐敬宗李湛(809年7月22日―826年)、唐文宗李昂(809年11月20日―840年2月10日)、唐武宗李炎(814年7月1日―846年4月22日)、唐宣宗李忱(810年7月27日/28日―859年9月7日/10日)は、皆唐の皇族であり、複雑な関係性を持っていました。
唐敬宗李湛は、唐穆宗李恒の長男として生まれ、16歳で帝位に就きました。在位期間は824年から826年と短く、朝臣への礼儀はわきまえていましたが、蹴鞠や夜狐狩りといった遊びに熱中し、政治には無関心でした。宦官の王守澄と宰相の李逢吉が結託し、政敵を排除するのを許した結果、綱紀が乱れ、染工の仮乱が起こりました。宝暦2年(826年)、宦官の劉克明らに暗殺され、わずか17歳でこの世を去りました。「睿武昭愍孝皇帝」と諡され、敬宗という廟号で庄陵に葬られました。
唐文宗李昂は、唐穆宗李恒の次男で、元の名は李涵でした。学識深く、恭倹で儒雅な人物でした。長慶元年(821年)に江王に封じられ、宝暦2年(826年)12月、兄である敬宗の死後、18歳で帝位に就きました。即位当初は政治に意欲的で、宮女三千人余りを解放し、五坊の鷹犬を放ち、冗員を削減しました。また、李訓や鄭注といった寵臣を重用し、宦官勢力を排除しようと「甘露の変」を起こしましたが、失敗に終わり、軟禁状態に置かれました。開成5年(840年)、鬱々とした日々を送る中で31歳で崩御し、「元聖昭献孝皇帝」と諡され、文宗という廟号で章陵に葬られました。
唐武宗李炎は、唐穆宗李恒の五男で、元の名は李瀍でした。敬宗、文宗とは異母兄弟にあたります。沈毅で雄略果断な性格で、初めは潁王に封じられました。開成5年(840年)、文宗が病に倒れると、宦官の仇士良と魚弘誌が皇太子李成美を廃し、李瀍を皇太弟に擁立しました。文宗の死後、李瀍は即位し、会昌と改元しました。道教を深く信仰し、長生不老の薬を服用していましたが、会昌6年(846年)、32歳で大明宮で崩御。「至道昭粛孝皇帝」と諡され、武宗という廟号で端陵に葬られました。
唐宣宗李忱は、唐憲宗李純の十三男で、穆宗の異母弟にあたります。元の名は李怡で、長慶元年(821年)に光王に封じられました。会昌6年(846年)、武宗の死後、宦官の馬元贄らに擁立され帝位に就きました。政治に精励し、常に善政を求めました。官吏の綱紀粛正、宗室や宦官の勢力抑製を行い、「甘露の変」で処刑された鄭注と李訓以外の関係者を全て名誉回復させました。彼の治世は「大中之治」と呼ばれ、唐が滅亡した後も人々から「小太宗」と称えられ、慕われました。大中13年(859年)、長生不老の薬を服用したことが原因で中毒となり、50歳で大明宮で崩御。「聖武献文孝皇帝」と諡され、宣宗という廟号で貞陵に葬られました。
また、唐穆宗には安王李溶という幼子(八男、墓誌銘には四男と記載)もいましたが、詳細な生没年は不明です。840年2月12日に亡くなったことが記録されています。
唐の皇女である太和公主(後に定安大長公主)は、唐憲宗の十女で、母は不明です。長慶元年(821年)、唐穆宗によって太和公主に封じられ、回鶻の可汗に嫁ぎました。会昌3年(843年)、石雄によって長安に迎え戻され、定安大長公主に改封されて、都で余生を送りました。彼女は唐代最後の和親公主でした。
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