『上古』 第53話:「回帰」

隠山之巅、楓林の石卓の傍。

碧波は百裏秦川の手にしがみつき、なかなか放そうとしない。眶は赤く腫れ、口をへの字に曲げ、足を地面にこすりつけながら、顔を上げようとはしなかった。

百裏秦川は彼の頭を撫で、丁寧に結われた小さな髻を軽くつまむと、眼底の感傷を素早く隠して微笑んだ。「碧波、お前はもう何万歳も生きている老いぼれだろう。どうしてまだ子供みたいなんだ。また機会があれば、私を訪ねて来てもいいんだぞ」

碧波は軽く鼻を鳴らした。「私は神獣で、まだ幼生期だ。老いぼれなんかじゃない」 少し躊躇うと、こんな時に駄々をこねている場合ではないと思い直し、百裏秦川の手を握り、老成した口調で指示し始めた。「百裏、お前の仙基は不安定だ。ここ数年は後池(こうち)仙君に助けてもらっていたとはいえ、おそらくあと百年ほどの寿命しか…」

百裏秦川は、この子がまたお決まりのように自分の仙縁を馬鹿にするのだと思い、口元をひくつかせて聞き流そうとした。しかし、碧波は竹坊の中をちらりと見て、こっそりと振り返ると懐から何かを取り出し、それを百裏秦川の目の前に差し出した。「百裏、これは私の霊液が変化したものだ。百年後にこれを服用すれば、あと千年生きられるだろう。後池(こうち)仙君は天縁を重んじるから、彼女には知られないようにしろ」

百裏秦川は碧波を見下ろした。碧緑の袍は体に無造作に巻かれ、小さな髻の赤い絹紐が揺れている。それは今朝自分が結んであげたものだった。碧波の真剣な表情を見て、百年前、初めて彼に会った時のことを思い出した。あの頃の彼はひどく傲慢で、いつも自分のことを「凡人」「凡人」と呼んでいた。

しかし今は… 百裏秦川は碧波から差し出された仙薬を受け取り、懐にしまうと、彼のふわふわとした柔らかい髪を撫でて微笑んだ。「安心しろ、碧波。お前が戻ってくるまで、私は待っている」

碧波は何度も頷き、目を細めて卵も差し出した。「もう一度抱いておいてくれ。数年後、彼が殻を破ったら、私と一緒に会いに行くから」

百裏秦川は頷き、眼底に笑みを浮かべ、何かを言おうとしたその時、紫色の光が閃き、净淵が少し離れた場所に現れた。

「净淵師叔、少しお待ちください。師尊を呼んできます」 百裏秦川は净淵にそう言うと、卵を碧波に返し、振り返った。すると、後池(こうち)がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

深紅の長い袍、肩に流れる長い髪は木簪でゆるくまとめられ、額にかかる数缕の髪は風に吹かれて散っている。額の冠玉は血のように赤く深く、切れ長の鳳眼はわずかにつり上がり、傲慢で奔放な雰囲気を漂わせながら、ゆっくりと歩いてくる。辺り一面の楓林でさえ、彼女の周りの熱く燃えるようなオーラには及ばない。

このような後池(こうち)は、彼が今まで見たことのない姿だった。百裏秦川は突然理解した。これが碧波の口から語られた、擎天柱の下で三界にたった一人で立ち向かい、自ら神位を削り、百年もの間追放された後池(こうち)神君なのだと。

ほんの短い間に、後池(こうち)は彼の前にまで来ていた。百裏は頭を下げ、恭しく言った。「師尊、お気をつけて」

後池(こうち)は頷き、眼差しに微かな光が宿ったが、多くは語らず、净淵の前に歩み寄ると言った。「行きましょう」

碧波は百裏秦川を一瞥し、仙獣の姿に変身すると、卵を抱えて後池(こうち)の肩に飛び乗った。目は潤んでいた。

净淵は楓林の下の石卓に目をやった。そこには、散乱した碁局があった。まるで昔のようだ。彼は目を伏せ、しばらくしてから顔を上げて言った。「そろそろ行くべきだな」

手を一振りすると、紫色の光が空間を引き裂き、巨大な光の輪が彼らの前に現れた。後池(こうち)は一歩踏み出し、背後にいる者に手を振ると、光の中に消えていった。净淵もまた、姿を消した。

淡い紫色の光が空中にゆっくりと消え、隠山之巅は静まり返った。これまでの百年よりも、はるかに冷え切っていた。

楓の葉は静かに舞い落ちていく。碁盤の上の駒は風に吹かれて地面に落ち、澄んだ音を立てた。

十万沼沢の外の世界では、相変わらず紅塵が渦巻いていた。天佑大陸では王朝が興亡を繰り返し、ただ隠山之巅の白い影だけが静かに立ち尽くし、空を見上げていた。時間は彼の背後で静かに流れていく。

三界の彼方、蛮荒沼沢。

ここは元々霧に覆われ、一日中太陽の光が届かない場所だった。三首火龍(さんしゅか りゅう)の支配下にあったとはいえ、元々は主のいない地であり、三界の天規の及ばない場所だった。一ヶ月前、金色の光が降り注いで以来、この場所に隠されていた全貌が明らかになった。見渡す限り続く緑豊かな森の中心部、かつては三首火龍(さんしゅか りゅう)の棲家だった場所に、今、数百丈もの幅を持つ巨大な岩が雲を突き抜け、雄大で茫漠とした大殿が突如として現れ、まるで天空のように世界を見下ろしている。

この仙木で建てられた大殿は、後古界のどの殿宇とも異なっている。遠くから見ると、火龍の印が鮮やかに浮かび上がり、荘厳な雰囲気を醸し出している。

深く力強い神力が蛮荒沼沢全体を包み込み、ほんの短い期間で、ここは三界のどの場所よりも洞天福地と呼ぶにふさわしい場所となった。訪ねてくる仙君や妖君は後を絶たず、天宮を凌ぐほどの勢いを見せている。

紫色の光が閃き、後池(こうち)一行は巨大な岩の下の茂みの中に現れた。彼女は目の前の突然の変化に驚き、雲を突き抜ける巨大な岩を見上げて、同様に呆然としていた。百年前、彼女と清穆(せいぼく)はここに来たことがある。確かにこんな姿ではなかったし、それに… 净淵はなぜ彼女を清池宮に帰さず、ここに連れてきたのだろうか?

後池(こうち)は何かを思い付いたように、眉をひそめて低い声で尋ねた。「净淵、ここはどこなのですか?」

「淵嶺沼沢だよ!」 背後の人物は軽く笑い、こう言った。「お前は百年前、ここで大変な騒ぎを起こしただろう。どうしたんだ、覚えていないのか?」

彼の声は少し異様に冷たく、また、何かを嘲笑うかのように長く引き伸ばされていた。後池(こうち)は異常に気づかず、言った。「ここはなぜこんな風になったのですか?」

「半月前、白玦(はくけつ)が目覚めた。ここは彼の今の住まいだ」 淡々とした一言だったが、後池はハッと我に返った。

净淵は巨大な岩の上の雲を指さし、嘲るように言った。「お前は彼に会いたかったのだろう? 彼は上にいる」

後池はその場に立ち、何も言わず、ただ顔を上げて、眼底に淡い茫然とした表情を浮かべていた。

「お前をここに送り届けたことで、私の役目は終わった。私は妖界に帰る。これからどうするかは、すべてお前次第だ」 净淵はそう言うと、軽く微笑んで姿を消した。

深紅の袍が地面を掠め、後池は長い間動かなかった。肩にとまっている碧波が目をこすりながら目を覚まし、彼女の物思いを遮るまで。

「後池仙君、ここはどこですか? あれ、净淵仙君はどこに行きましたか?」 碧波は手に持った卵をしっかりと抱きしめ、少しぼんやりとした声で言った。

「ここは淵嶺沼沢、白玦(はくけつ)の住む場所よ。净淵は妖界の紫月山に帰ったわ」 後池は淡々とした口調で答え、少し離れた桃林に向かって歩き始めた。

彼女はここを覚えている。かつて三首火龍(さんしゅか りゅう)に追われた時、鳳染(ほうせん)にここに連れてこられたのだ。

碧波は後池の言葉を聞いて、慌てて口を手で覆い、耳を垂らして黙り込んだ。

桃林の外は、青々とした草が生い茂り、小川がせせらぎ、まるで仙境のような景色が広がっていた。後池は桃林に近づく前に、足を止めた。

少し離れた小道に、一列の仙娥(せんが)が歩いてくるのが見えた。美しい顔立ちで、皆が玉の箱を抱え、不安そうな表情をしていたが、眼底には期待と恥ずかしさが隠しきれないでいた。

後池は少し躊躇したが、身を隠すこともなく、ただ脇の古木に数歩移動して小道を開けた。

「霊芝、天后(てんこう)様は本当に公主を可愛がっていらっしゃるわね。天宮の宝庫を管理している姉様から聞いたんだけど、今回の景昭(けいしょう)公主のご成婚で、天后(てんこう)様は宝庫の物をほとんど運び出してしまったそうよ」 緑色の薄い紗の衣をまとった仙娥(せんが)は、隣の紫色の衣を著た少女に軽く触れ、小声で言った。声には抑えきれない羨望が込められていた。

「何止…素娥、これらの品々は後古の宝に過ぎないわ。娘娘には上古(じょうこ)の奇物がたくさんあって、どれも景昭(けいしょう)公主のために取っておかれているのよ。そうでなければ、大殿下が自ら届けることなんてないでしょう」霊芝は瞬きし、少し声を張り上げた。「今回の婚礼は、まさに前代未聞、後にも先にも例を見ないわね」

「それはそうよ。白玦(はくけつ)真神は上古(じょうこ)の真神で、陛下でさえ幾分か敬意を払っている方よ!公主は本当に幸運だわ。もし今回、公主が私を気に入って、蒼穹殿に仕えさせてくれたらいいのに」素娥はため息をつき、言った。「でも、私の仙力は微弱だから、望み薄だわ。霊芝、あなた頑張って。もしかしたら残れるかもしれないわよ」

「ねえ、素娥…」霊芝と呼ばれた仙娥(せんが)は相槌を打たず、代わりに頭を下げて小声で言った。「白玦(はくけつ)真神はかつて清池宮の後池仙君に求婚したって聞いたけど、どうして今度は私たちの公主と結婚することになったの?」

後池は踵を返そうとしていたが、仙娥(せんが)の言葉を聞いて足を止めた。

碧波は不満そうに仙娥(せんが)たちに「うう」と数回唸り声を上げた。後池は碧波の肩を軽く叩き、何も言わず、表情は静かで落ち著いていた。

「霊芝、あなたの仙縁は私より良いけれど、飛昇したのは遅いから、知らないことも多いのよ」素娥は顎を上げ、声にいくらか得意げな響きがあった。「後池仙君に求婚したのは清穆(せいぼく)上君で、私たちの公主と結婚するのは白玦(はくけつ)真神よ。当然違うわ」

霊芝は頭を掻き、言った。「何が違うの?どちらも同じ人じゃない」

「清穆(せいぼく)上君は、白玦(はくけつ)真神が覚醒する前の姿に過ぎないのよ。今は白玦(はくけつ)真神が覚醒したから、清穆(せいぼく)上君は当然消えたのよ」

木の陰に立っていた後池は眉を下げ、口を真一文字に結んだ。表情にはわずかな怒りが浮かんでいた。

やはり、皆にとって清穆(せいぼく)の存在などどうでもよかったのだ。彼らの目には、清穆(せいぼく)は白玦(はくけつ)であり、ただの付属品に過ぎなかった。

「ねえ、じゃあ後池仙君は?百年追放されたんじゃなかった?もし戻ってきたら、白玦(はくけつ)真神はすでに公主と結婚しているわ。どうなっちゃうの?」

「余計な心配をしなくていいのよ。彼女は古君(こくん)上神の娘なんだから。三界で彼女に求婚した仙君は数え切れないほどいるわ。あなたに心配するまでもないわ」

霊芝は腑に落ちない様子で、ぼんやりと頷き、素娥と一緒に前へ歩いたが、突然立ち止まった。

前の古木の陰に、紅色の影がぼんやりと立っていた。その姿ははっきりとは見えなかったが、蒼穹殿の近くに無関係な者が侵入することは決してなかった。ましてや桃林の近くである。すぐに顔をしかめ、低い声で言った。「誰だ!」

その人は最初動かなかったが、数人の仙娥(せんが)がゆっくりと近づき、数歩の距離まで来ると、その人は堂々と姿を現した。

紅色の長い衣、すらりとした姿、墨のように黒い髪が背中に垂れ、額の血玉は鮮やかで深い。切れ長の目はわずかに上がり、口元には笑みを浮かべているような、いないような表情。堂々として力強く、古風で高貴な雰囲気を漂わせていた。

数人の若い仙娥(せんが)は、近づく人物をじっと見つめ、一瞬息を呑んだ。

このような容姿と気質を持つ女仙君は、一体どこの出身なのだろうか?

「ちゅうちゅう」という鳴き声を聞いて、皆我に返り、紅衣の女仙君の肩を見た。鮮やかな緑色の小さな仙獣が卵を抱えて歯をむき出しにしているのを見て、慌てて後池に挨拶をした。「どちらの仙府の仙君でしょうか?道に迷われたのですか?蒼穹殿へ公主に拝謁するためでしたら、ご案内いたしましょうか?」

このような容姿と立ち居振る舞いから、きっとどこの老上君の弟子だろう。最近、淵嶺沼沢へ白玦(はくけつ)真神に祝いの言葉を述べに来る仙君は実に多かったため、彼女たちは後池もその一人だと考えたのだ。

公主に拝謁する?後池は目の前の数人の仙娥(せんが)を静かに見つめ、目に微かな光が宿ったが、何も言わなかった。

後池の冷たさを感じ、素娥は先ほどの呼びかけで目の前の女仙君の怒りを買ってしまったと思ったのか、内心少し苛立った。彼女は天宮御宇殿の仙娥(せんが)であり、天后(てんこう)の前では常に寵愛を受けていたので、このような軽視を受けたことはなかった。彼女は目先を変え、霊芝の手を引いて一歩下がり、さらに低姿勢で言った。「仙君、お許しください。淵嶺沼沢は他の場所とは違います。白玦(はくけつ)真神は訪ねてくる仙君が勝手に歩き回るのを好まれません。もし仙君が桃林を散策なさりたいのでしたら、先に公主に申し上げれば、公主はきっと喜んでお供してくださるでしょう」

まさか白玦(はくけつ)と景昭(けいしょう)の名前を出して私を脅すとは、この仙娥(せんが)は面白い。先ほどの発言からすると、御宇殿の人間らしい。後池は目を伏せ、ため息をついた。天后(てんこう)はどうあれ上神なのに、どうしてこんな下人を育てたのだろうか。

しばらく返事がなく、素娥は恐る恐る顔を上げたが、女仙君はただ彼女たちをちらりと見て、肩の小さな仙獣の頭を撫でると、そのまま桃林の方へ歩いて行った。

「仙君、桃林に侵入してはいけません!」数人の仙娥(せんが)は後池が桃林へ歩いていくのを見て慌て、急いで追いかけたが、霊力によって軽く阻まれた。

後池は振り返り、わずかに眉をひそめ、静かに言った。「蒼穹殿は高すぎるわ。私は旅の疲れで、あまり動きたくないの。…先に景昭(けいしょう)に聞いてきて。私が彼女の許可を得ないと、ここに入ってはいけないのかどうか」

紅衣の女性が振り返った瞬間、燃えるような紅い衣がわずかに舞い上がり、見る者を惹きつけるような静けさと華やかさがあった。

数人の仙娥(せんが)はこの迫力に圧倒されたように、その場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れて、後池が桃林へ歩いていくのを見送った。しばらくしてようやく我に返った。

「この仙君は誰?とても恐ろしい!でも、公主の名前を呼び捨てにするなんて、本当に無礼だわ」

おずおずとした声が響き、素娥を驚かせた。何かを思い出したように、彼女は桃林の奥の燃えるような赤い影に視線を向け、はっとすると言葉を失い、顔が真っ赤になった。玉の箱を霊芝の手に渡すと、急いで言った。「大変だ、何かあったわ。私が公主に報告に行くから、あなたたちはここで待っていて、誰にも近づけさせないで」

そう言うと空へ飛び上がり、瞬く間に姿を消した。取り残された数人の仙娥は顔を見合わせ、途方に暮れた。

半空に二人の人影が現れた。相変わらず紫の衣をまとった紫涵(しかん)は、净淵の後ろに立ち、小声で言った。「主公、後池仙君はもう遠くに行ってしまいました」

净淵は我に返り、眉を揉み、笑った。「彼女が損をするのではないかと心配していたが、本当に余計な心配だった。彼女の性格では、誰に出会っても相手の方が損をするだろう。古君(こくん)も温厚な性格なのに、彼女のこの歯に衣著せぬ物言いは一体どこで覚えたのだろうか?」

紫涵(しかん)は口を挟む勇気はなく、頭を深く下げ、聞こえないふりをした。

「まあいい。戻ろう。二か月後の婚礼は後古界にとって一大イベントだ。私も厚い贈り物を用意しなければならない」

彼の言葉が終わると、二人は半空から姿を消し、淡い紫の光も一緒に消え去った。

後池は碧波の羽根を撫でながら、ゆっくりと景色を眺めていた。ここは百年前に比べてかなり栄えていた。見渡す限り、底知れず、一面の桃色が温かく穏やかで、かすかな香りが鼻先を漂い、心を和ませた。

この桃林は、地上の楽園と言っても過言ではない。彼は本当に優雅に過ごしている。一言でこの淵嶺沼沢を自分のものにしてしまった。後池はそう考えていると、突然足を止めた…彼女たちが彼女が桃林に入るのをみて、あんなに慌てたのも無理はない…

十メートルほど先の場所で、白い衣をまとった人影が桃の木の下に静かに座っていた。容貌は冷たく美しく、両目はわずかに閉じ、眠っているようだった。手に持った書物が軽く揺れ、風に吹かれて、ページが軽やかな音を立てていた。

後池はその場に立ち、静かに彼を見ていた。ふと、思った。

ああ、この世には、本当に一目惚れというものがあるのだ。

清穆(せいぼく)、約束通り戻ってきたわ。

でも、あなたはまだそこにいるの?